コピーライターもどきからスタイリストへ
50年以上にわたって広告、音楽、映画などさまざまな分野で活躍、今もなお第一線で走り続けるスタイリスト、「ヤッコさん」こと高橋靖子さん。T・レックス、デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、YMO、忌野清志郎、ももいろクローバーZ……。国内外の著名アーティスト、そして数限りない写真家やクリエイターが、彼女に絶大な信頼を寄せ、深く記憶に残る作品を共に生み出してきました。
しかし、高橋さんがそのキャリアをスタートさせた60年代、まだ日本にはスタイリストという職業はないに等しく、彼女自身、スタイリストになろうという明確な意思はなかったと語ります。
「大学在学中、何か就職の突破口になればと、久保田宣伝研究所(現・宣伝会議)のコピーライター養成所に通っていたんですよ。それがきっかけで、コピーライターとして大手代理店に就職することになったんです。ところが入社したらコピーを書くのが辛くて(笑)。知人の広告制作会社に遊びに行くうち、『ヤッコさんもここに来たら?』って言われた言葉が天啓のように響いて、代理店を辞めて自主的に出勤し始めちゃったんです(笑)」
若いスタッフ数人の小さな会社で、高橋さんはコピーライティングと並行して撮影のロケハン、小道具や衣装集め、食事の用意と走り回りました。
「まだ私は何のプロフェッショナルでもなかったから、少しでも役に立つことをしないとお給料をもらうのが悪いなって。ところが、そのうちにどんどん撮影の手伝いを頼まれるようになって、自然とそっちの仕事が本業になっていったの」
走り書きのラフスケッチだけでイメージに合う衣装や小道具をサッと揃えてくる高橋さんを、関係者たちは高く評価し、こう言葉をかけます。「ヤッコには他の人にはない何かがあるね」。ほどなくして「ヤッコさん、お願い!」という指名の撮影が続くようになり、高橋さんは2年ほどで独立。フリーランスとして活動を始めました。
「まだスタイリング料なんて明確じゃなかった頃だから、最初はどんなに働いても金銭的には大変で。でも、周囲から『いつかはいい時代が来るよ』と励まされて頑張っているうち、ポスターやカタログだけではなくCFの仕事も増え始めて、あっと言う間に寝る暇もないくらい忙しくなっちゃったの。業界の人たちは“新しもの好き”だから、ちょっと使ってみようって思ったんでしょうね」
有り金をはたいてニューヨークへ武者修行に飛び、大いに刺激を受けたのもこの頃。この経験は、スタイリストと名乗ることに逡巡を覚えていた高橋さんに、「自分が目指す方向は間違っていない」という自信を与えます。やがて彼女の名刺には、日本で初めて「スタイリスト」という肩書きが刷り込まれることとなりました。
写真に対する深いリスペクト
フリーになる前に高橋さんが勤めていたオフィスは、当時多くのクリエイターたちが集っていた原宿セントラルアパートにありました。
「毎日アパートの下の喫茶店で仲間とコーヒーを飲みながら、こんなものが作りたい、あんな仕事がしたいと、何時間でも話が尽きないの。それが楽しくて仕方なかった。同じ店には若いミュージシャンやデザイナーが集まっていたし、同じアパートには鋤田正義さん、浅井慎平さん、操上和美さんといったカメラマンの事務所もたくさんあって、いろんな仕事をご一緒しました」
もともと実家が写真館を営んでおり、小さい頃から『アサヒカメラ』や『写真文化』といった写真雑誌に掲載された細江英公さんや奈良原一高さんなどの写真を目にしていたそう。
「その細江さんとも撮影をお手伝いする機会に恵まれて。彼らの作品を見ていると、『こんなにすごい人たちがいるんだから、自分はカメラマンや写真家には絶対なれない』ってことが分かるのね。それでもこうしてスタイリストを飽きずに続けているということは、写真が好き、撮影のサポートが好きということなんでしょうね」
鋤田正義さんとは共に渡英し、T・レックスやデヴィッド・ボウイとの飛び込みのフォトセッションを実現させたのは有名なエピソードですが、この時高橋さんはスタイリングだけでなく、レコード会社に連絡を取って自ら交渉までやってのけたとか。撮影する側にも撮影される側にもリスペクトをはらい、好奇心とアイデア、行動力にあふれた高橋さんは、60~70年代のカルチャーを牽引したさまざまな写真家やクリエイターたちと濃密な時間を過ごし、やがて日本のスタイリストの先駆けとなっていったのです。
誰かの声に応え、飛び続ける
スタイリングを担当したアーティストやモデルから絶大な信頼を寄せられることでも知られる高橋さんですが、どれほど親しくなっても踏み込みすぎず、背負いすぎず、あくまでサポーターとして、適度な距離を保つことが彼女の信条。一方で、スタイリストにしかできない役割を実感することも時にはあります。たとえば、70年代から深い親交を結んできたデヴィッド・ボウイが、ロンドンからアメリカに進出した初ライブでのこと。満員の観客を前に、今まさにカーテンが開くというその時、彼は「メイクの粉が目に入った!」と叫び出したといいます。
「『目が痛くてライブはできない!』と、ワーワー泣いて手がつけられないの。その時に私、『彼は不安で不安で、それをぶつけないとステージに出て行けないんだな』って分かったのね。だから、黙って彼をギュッと抱きしめて、背中をさすったの。そしたら自然と泣きやんで、バッとステージに飛び出していったんです。そんなことができたのは、肌と肌が触れるような関わり方をするスタイリストだからこそだし、役目なのかもしれませんね」
今でも、高橋さんは自ら衣装を探しに歩き、ないものがあれば手作りし、リース品の返却さえ自分で出向きます。アシスタントこそいるものの組織を持ったことはなく、自分自身の力でまだ見ぬ世界に挑もうとする情熱は、70代半ばとなっても止むことがありません。
「スタイリストとしての私に、これから誰が声をかけてくれるか、どんな出会いがあるか、とても楽しみなの。常に好奇心と感性を働かせて、現場で仕事がしたい。1年でも仕事がなかったら、私はもうスタイリストと名乗らないと思うわ」
そしてもう一つ高橋さんが力を注いでいるのが、自分を書き残すこと。「コピーライター時代は書くことがあんなにイヤだったのに、不思議よね」と笑いながら、ブログを書き、フェイスブックを更新し、本を執筆しています。
「日々思うことも綴っていきたいし、幼い頃からの記憶も一つずつ書いていきたい。私にも苦労や挫折はあって、それを克服してここまでやってきたわけだけれど、どこかにまだ、許せていないことや消化し切れていないことがあるのね。それを文章に書くことで乗り越えられるような気がするの。そして過去からポーンと飛んで、新しい何かを発見したい。これからは自分の時間も限られているから、ここでおしまいという時に、『あぁ、せいせいした』って思いたいのよ。だから、1日1日、時間が本当にもったいないの」
My favorite photographerspan> | Masayoshi Sukita
新しい音楽の扉を開いてくれる人
1979~80年の「Yellow Magic Orchestraワールドツアー」から2009年の「ワールド・ハピネス公演」まで、鋤田正義が撮影し続けたYMO(細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏)の集大成ともいえる写真集。「原宿セントラルアパートの喫茶店で『ヤッコさん、T・レックス知ってる?』と声をかけられて以来、鋤田さんの音楽の旅をお手伝いしながら、いつも新しい扉を開いてもらってきました。YMOもその一つ。この写真集が刊行されて、本当にうれしかった(高橋さん)」。

高橋靖子
1941年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、代理店勤務を経て広告制作会社へ入社。1960年代にフリーのスタイリストとなる。デヴィッド・ボウイの衣装を担当するなど、国内外で活躍し、日本のスタイリストの草分け的存在に。また、エッセイ『家族の回転扉』で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞するなど著作も多い。近著に『時をかけるヤッコさん』(文藝春秋)『表参道のヤッコさん』(河出文庫)など。