70-200mm F2.8 DG OS HSM Sports Impression
F2.8通しの70-200mmは、“ポートレートズーム”と呼ばれることが多い。サンプルレンズを受け取る際に「Artラインでないのですか?」と担当者に尋ねてしまった。確かにポートレートにちょうどよい焦点域ではあるが、開放F値から場内スポーツで重宝するのはもちろん、自然光でのスタジオワーク、テレマクロ的な使い方や中距離の風景撮影など、考えてみれば無意識のうちに様々な撮影に持ち出していることに気づかされる。なるほど、囚われるとはまさにこのことだ。一昔前の70-200mmは軒並み寄れないレンズだったが、最短撮影距離を最初に縮めてきたのはシグマだったような記憶がある。各社しのぎを削る名玉揃いといった印象だが、シグマの先代レンズもリニューアルの必要を感じない描写。一連のコンセプトラインへ載せてきてのリニューアルだが、果たしてどんな描写を見せてくれるのか楽しみだった。早速インプレッションをお届けしたい。
“リアル”に添えられる、何か。
リアリティとはリアル(現実)のシーンにレンズを向ければ、すくい取れるものだろうか。単にボディとレンズの根源的な性能を高めさえすればよいのか。おそらく答えは否であろう。目で見る世界をそっくりキャプチャすることですら難しい。そしてリアルとは人それぞれだ。ましてポピュレーションを伴った”リアリティ”ともなれば、杓子定規的な取り組みを超えた世界にしか宿らないのだろう。近年のシグマのレンズには、いささかオーバークオリティめいたものを感じ、ひたすらに「良いものを造りたい」という志を感じる。それが「贅」を生むのか、ともかくハッとさせられる写り。そしてファインダーを覗く心を駆り立てられるのだ。
よい面構えだ。彼の内面に宿るものが見て取れる。レンズはそれをストレートに伝えるのみであり、演出はない。何を足すわけでも引くわけでもない。離島で受け継がれてきた相撲を取る男に宿る魅力を、ただフレームに湛える。撮り手は、向き合った被写体だけを捉えるのではない。カメラを構え、被写体との間にあるものをなんとか写したいと願う。向き合い、見つめる。そしてシャッターを切る。居合いのようなものだ。そのことだけに専念できる。写りに関しては完全に任せていられると感じた。レンズの仕事ぶりに撮り手として触発される。
ルポルタージュに添えられる、何か。
生業の場に足を踏み入れることは何時だって憚られる。たとえその場の人々に依頼された撮影であったとしてもだ。ともかく場を乱さぬように立ち居振る舞うのはもちろんのこと、できる限り「無」となるよう心がける。できるなら息を止めたいほどだ。無となるには、もう一つ理由がある。やれることはたかだかしれているが、現場と一体となりたい。つまり、その場の空気をなんとか持ち帰りたい。こんな現場で、70-200mmという焦点域のレンズは心強い。そして開放のボケ量と味わい、描写性能が物を言う。
光と背景の関係から立ち位置についてだけお願いして、あとはシャッターを切るのみだ。前述のとおり、ルポタージュの現場において撮影者側からフレームに盛り込める要素は少ない。だが、これだけ現場の温度と湿度を余すことなく再現してくれるのであれば、現場に浸りきれる。外連味のない真っ直ぐな肖像写真。それが成立する高いキャプチャ能力の先にある、美しい描写だ。真っ直ぐにということが、いまの世の中において、一番難しいことかもしれない。
カメラバッグにプラスされる「力」
我々テスト陣が手渡されるレンズは、その大半が製品版としての最終のものではない。もちろん、テストシュートが可能なレベルにまで追い込まれてはいるものの、出荷時には最大限にまで追い込まれる。ボケの前後のスムーズさ、開放から高い解像力を持ち、よくもこれだけ収差を排することができるものだと感心した。すべての要素において次元の高い描写性能を持つ。最終出荷バージョンであれば、重箱の隅をつつくような要素も消し去られることであろう。ズームレンズでありながら、Artラインでの単焦点レンズが何本も連なったようなものだと捉えてほしい。この1本があれば、中望遠域は任せてしまえる。ただ捉えるだけではない。その場の空気を持ち帰ることができるような、そんな根源的性能の高さを持つ1本だ。